浅草スカイツリー近くにある牛嶋神社へ行って参りました。

浅草、隅田公園、スカイツリー、アサヒビール本社が近くにある牛嶋神社へ行って参りました。

こちらの神社は三貴神で名高いスサノオという神様が祀られています。

源頼朝と千葉常胤による逸話があり…。

徳川将軍家と所縁も深く…。

牛鬼の如き妖怪の伝承。

さらに葛飾北斎が生涯の大半を過ごした地としても有名です。

特に毎年、牛嶋神社で執り行われている例大祭は向島から錦糸町まで大盛り上がり。

氏子も多く、様々な方から愛されている神社だと伺えます。

 

 

浅草牛嶋神社

 

 

■御祭神
須佐之男命(すさのおのみこと)
天之穂日命(あめのほひのみこと)
貞辰親王命(さだときしんのうのみこと)

 

 

■御由緒
「貞観2年(860)に慈覚大師が、御神託によって須佐之男命を郷土守護神として勧請創祀したと伝えられる本所の総鎮守。関東大震災で焼失する前は墨堤常夜燈(隅田公園内)の東側にあった。昭和7年(1932)に墨田堤の拡張により、現在の場所に再建された。
本殿の左右に、神牛が奉納されている他、建長3年(1251)には牛鬼が社中を走り回り、落として行った牛玉を神宝としたという伝承も残る。また境内には、江戸中期から後期の国学者・加藤千蔭の碑や江戸落語を中興したといわれる立川(烏亭)焉馬(1743~1822)の『いそかすは 濡まし物と 夕立の あとよりはるる 堪忍の虹』の句碑などがある。
5年に一度の例大祭は、牛が引く鳳輦を中心に古式床しい祭列が、向島から両国に広がる氏子の町内を2日かけて巡り、本所2丁目の若宮公園内にある御旅所で1泊する。返礼の町神輿の宮入れは50基が連なる都内最大の連合渡御となる。」境内由緒書きより

 

 

浅草牛嶋神社

 

 

■牛嶋神社
「牛島神社は、もと本所区向島須崎町に鎮座していたが、関東大震災後昭和のはじめ、水戸徳川邸跡の現位置に再建された。
当社の縁起書によると貞観2年(860年)御神託によって須佐之男命を郷土守護神として創祀し、のちに天穂日命をまつり、ついで清和天皇の皇子貞辰親王をお祀りし『王子権現』と称した。
また天文7年(1538)後奈良院より『牛御前社』との勅号を賜ったと言われ、隅田川に沿う旧本所一帯の土地を、むかし『牛島』と呼んだところから、その鎮守として明治初年から『牛島神社』と称するようになった。例祭日9月15日は、貞観のむかしはじめて祭祀を行った日とされている。
治承4年(1180)源頼朝が大軍をひきいて当地におもむき、豪雨による洪水に悩まされた時、武将千葉介平常胤が祈願し、全軍無事を得たところから、頼朝はその神徳を尊信して社殿を建立し、多くの神領を寄進した。
江戸時代には鬼門守護の社として将軍家の崇敬厚く、特に三代将軍家光は、祭礼神輿渡御の旅所としての土地を寄進した。現在の本所2丁目のお仮宮がこれである。
総桧権現造り東都屈指の大社殿を誇る牛島神社は、昭和32年鎮座1100年祭を執行、氏子五十余町牛島講の守護神として崇敬尊信をあつめている。」玉垣内案内板より

 

 

 

特徴的なのが狛犬ならぬ狛牛が置かれているということ。

「 撫で牛(なでうし) 」とも呼ばれ、この牛の像を撫でると健康にご利益があると言われています。

 

 

 

浅草牛嶋神社

浅草牛嶋神社

浅草牛嶋神社

 

《撫牛》墨田区登録文化財
「撫牛の風習は、江戸時代から知らせていました。自分の体の悪い部分をなで、牛の同じところをなでると病気がなおるというものです。牛嶋神社の撫牛は体だけではなく、心も治るというご利益があると信じられています。また、子どもが生まれたとき、ゆだれかけを奉納し、これを子どもにかけると健康に成長するという言い伝えもあります。
この牛の像は、文政8年(1825)ごろ奉納されたといわれ、それ以前は牛型の自然石だったようです。
明治初期の作家、淡島寒月の句に「なで牛の石は涼しき青葉かな」と詠まれ、堀辰雄は『幼年時代』で「どこかメランコリックな目ざしをした牛が大へん好きだった」と記すように、いつも人々に愛されてきました。平成17年3月」境内 墨田区教育委員会の解説板より

 

 

 

手水場に飾られているのは牛嶋神社の神紋でしょうか。

他にも狛犬や石碑などが設置されています。

 

 

 

浅草牛嶋神社

浅草牛嶋神社

浅草牛嶋神社

浅草牛嶋神社

浅草牛嶋神社

浅草牛嶋神社

浅草牛嶋神社

浅草牛嶋神社

浅草牛嶋神社

浅草牛嶋神社

浅草牛嶋神社

浅草牛嶋神社

浅草牛嶋神社

浅草牛嶋神社

 

 

《烏亭焉馬『いそかすは』の狂歌碑(墨田区登録文化財)》
「“いそかすは 濡れまし物と 夕立の あとよりはるゝ 堪忍の虹”談洲楼烏亭焉馬
この狂歌碑は裏面にあるとおり、初世烏亭焉馬自身が文化7年(1810)に建てた碑です。江戸落語中興の祖と称された烏亭焉馬は本名中村利貞、字が英祝、通称は和泉屋和助です。寛保3年(1743)生れ、本所相生町5丁目(現 緑1丁目)の大工の棟梁で、狂歌や戯文をよくする文化人としても有名でした。談洲楼の号は五世市川団十郎と義兄弟の契りを結んだことから団十郎をもじったもの、また竪川に住むことから立川焉馬、職業の大工であることから「鑿釿言墨曲尺」とも号しました。
元禄時代にひとつの話芸として確立された落語も、その後衰えていましたが、天明4年(1784)に向島の料亭武蔵屋において、焉馬が自作自演の「噺の会」を催し、好評を得たことから江戸落語が盛んになっていきました。寛政末年頃には現在の落噺の形が完成し、明治に入って落語という呼び方が定着しました。
文政5年(1822)80歳で亡くなり、本所の最勝寺に葬られました。(現在は寺・墓 共に江戸川区平井に移転)
平成7年3月 墨田区」境内案内板より

 

浅草牛嶋神社

 

 

 

 

いつの時代に奉納をされたのかわかりませんけど使われてない井戸がありました。

昔の方々は、この井戸で水を汲んで生活をしていたと思うとロマンがありますね。

 

 

 

浅草牛嶋神社

 

 

 

写真が見辛くて申し訳ありませんが手前の鳥居とは別にある奥にある鳥居。

小さな鳥居が2期、脇に添えられているのですけど非常に珍しく。

“ 三輪鳥居(みわとりい) ”と言われているようです。

 

 

 

浅草牛嶋神社

 

 

 

社殿も立派です。

稀に土日祝日など通りかかると、こちらの神社で結婚式を挙げられている方もいらっしゃいますね。

 

 

 

 

浅草牛嶋神社

浅草牛嶋神社

浅草牛嶋神社

 

 

 

尚、神社と隣接する形で隅田公園が並び。

水戸徳川家下屋敷跡、明治天皇行幸処、水戸徳川邸旧址の碑などもあります。

浅草の中でも自然が豊かな場所で散歩やジョギングをされている方もいらっしゃるようなので参拝と一緒に公園内を周回するのもオススメですよ。

 

 

 

浅草牛嶋神社

浅草牛嶋神社

浅草牛嶋神社

浅草牛嶋神社

浅草牛嶋神社

浅草牛嶋神社

浅草牛嶋神社

浅草牛嶋神社

 

 

牛嶋神社【うしのごぜん社】 – 東京都神社庁
http://www.tokyo-jinjacho.or.jp/sumida/5692/

 

 

 

■地図

 

 

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